仙助
(有)松江錦鯉センター会長 飯塚昌一の手記より

仙助(せんすけ)とは?
仙助・・・紅白の系統と認識している人は大勢いても、そのルーツをはっきりと理解されている方は少ないと思います。
ここに仙助の誕生と現在の松江仙助紅白の基盤になる血統の流れを説明します。

仙助とは1960年頃、新潟の長岡市川口町武道窪の綱作太郎(屋号・仙助)が、竹沢の友右衛門と荷頃の源八の組み合わせから出来た相川の常七紅白♂に木沢の源治郎♀を掛け合わせて出来た鯉とその系統のことを指し、これが仙助の歴史の始まりとなります。


当時、綱作太郎は農業の傍ら錦鯉を生産する小規模な生産者でした。
池上げされた鯉は2才が20匹程度、3才以上が10匹程度と数は少ないものでしたが、その鯉の骨格は力強く緋の練り、緋際は目を見張るものがありました。

綱作太郎は若い鯉師故・宮寅一(宮寅養魚場)を慕い、宮氏を介しての販売しかしない当時の生産者としては一風変わった面を持ち合わせていました。
当時の私は秋の仕入れ時期になると、毎年宮寅養魚場を常宿として宮氏と一緒に鯉を仕入れていたため、新潟での行動を常に彼とともにしておりました。
綱氏から池上げの連絡があると直ぐに向かい2才は宮氏が、2~3匹抜いた後の残りの全部を私が購入するのが毎年のスタイルでした。

私は島根・松江に仙助紅白を持ち帰り野池飼育を始めます。
およそ2年の間、毎年2~3匹の親鯉候補を作りながら生産を始めていましたが、面積も少なく3腹の紅白をちょっとずつ育てるのが精いっぱいでした。


ですが、故・竹田勉氏(広島 竹田養魚場)を介して購入した大日♂を掛け合わせて出来た鯉の中に現在の松江紅白のベースとなる鯉が数匹残り、また㈱阪井養魚場へも1匹親鯉として行きました(さくら 当時70cm)。
この頃私は広井清治(新潟 国魚館)の御好意をうけ新潟で野池を借り、当歳を20匹委託飼育しておりました。
秋、抜群の野池上がりの2才の姿に驚いた広井氏と宮氏に1本ずつ購入していただき、新潟の地で育てられた後その鯉がどちらも新潟農業祭で33回、36回と農林水産大臣賞を獲得した事は仙助を生産するうえでの絶対的な自信と、この系統の底知れぬ力を確信する出来事となったのでした。


一方、島根での私の生産と期を同じくして宮寅から仙助の5才♀を親鯉として持ち帰った山口の愛好家故・森田和正氏の存在があります。
森田仙助は体高があり骨格もよく伸びやかな体の流れはジャンボになる素質を感じるものがありました。
私は森田氏が立て鯉を残した後の鯉の販売を一手に引き受ける約束を結びます。
これにより松江仙助と森田仙助が一気に西日本から拡がる事になったのです。
1967年頃の事です。
この森田仙助の中にも数々の銘鯉が誕生しましたが、その中に現在の紅白の進歩に大きく関わる鯉がいました。
(株)阪井養魚場へ親鯉として行った(どんぐり 当時85cm)です。

1973年私は綱作太郎が高齢のため鯉の生産を辞めると聞き相談を受け、仙助の元親♀を島根に持ち帰ります。


元親♂は既に死んでいませんでした。
これにより、新潟での仙助の生産は途絶えたのでした。
この頃、綱作太郎は私にこんな質問をしたのを覚えています。
「センスケ、センスケって西の方で話題になっているのは、ありゃオラのことかい?」
私は素朴な質問に色々な思いが交差して綱爺さんの両手をギュッと握りしめ
「そげだ。爺さんの仙助のことだ!ありがとうなぁ」
と言葉を交わしたのでした。
今となってはあの頃の総てが懐かしい遠い記憶です。


最後に(有)松江錦鯉センターにおける仙助は
① 新潟・仙助からの直径♀に森田仙助♂を掛けた直系自家産仙助
② 森田仙助と竹田養魚場(広島)経由の大日♂の組み合わせから作出した森田系自家産仙助
③ 森田仙助に各有名生産者♂を掛け合わせた森田系近代自家産仙助

上記3系列が始まりとなります。 

この3系列を元に現在まで仙助の血を絶やさぬよう系統保存を重視し、日々生産活動に取り組んでいます。

2016/9/10
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